織田信長 
 戦国時代から安土・桃山時代の戦国大名。1534年に尾張の国(今の愛知県)に産まれ、1582年に本能寺で自害した。
@信長の天下統一の戦い
 戦国時代の終わり頃、信長は、隣の美濃の国(今の岐阜県)の大名、斎藤道三と同盟を結ぶために娘と結婚した。18歳で家をつぐと、つぎつぎに周りの武将を破り、1559年、尾張の国を統一した。1560年、駿河の国(今の静岡県)の大名、今川義元を桶狭間の戦いで破った。僅か数千の兵で数万の大群を破って、その名は天下に知れ渡った。その後、三河の国(今の愛知県)の大名、徳川家康は、幼少の頃、今川義元の人質になっていたこともあり、今川義元側についていたが、今川義元が死んでから、織田信長と同盟を結び、信長に従った。(信長の家来となった最初の大名)
斎藤道三が亡くなった後、1567年、美濃の国も攻めて、信長の領地は、美濃の国(今の岐阜県)と尾張の国(愛知県の一部)に広がった。
 室町時代の終り、戦国時代は、全国の戦国武将がお互い戦い、室町幕府の力は衰え、大名たちは幕府の言うことは聞かなかった。その大名たちも家来に殺されたり世の中が乱れた。これを下克上という。
 1568年、織田信長は、朝倉氏(今の福井県)のもとに身を寄せていた、足利義昭を招いて、京都にのぼり、足利義昭を室町幕府の15代将軍にした。しかし、その後、足利義昭とうまくいかず、対立することになる。
信長が将軍のように振る舞い、天下を統一する勢いに、それを不満に思った15代将軍、足利義昭は、武田信玄、朝倉義景、浅井長政などの諸大名や、比叡山延暦寺、石山本願寺などのお寺と手をむすび、信長に対抗した。
 主な戦い、1570年、朝倉義景・浅井長政(信長の妹、お市の方が嫁いでいる)連合軍と戦った姉川の戦いで、朝倉氏・浅井氏は、信長に破れた。城が落ちた後、浅井長政夫人・お市の方は、三人の娘を連れて兄である信長の元に帰った。朝倉・浅井氏に味方した比叡山延暦寺は焼き討ちされ、僧兵・門徒、3千人〜4千人が殺されたという。信長の非情な面として語り継がれている。その時、15代将軍、足利義昭も兵をあげて信長と戦って破れた。1336年、足利尊氏が京都の室町に幕府を開いてから240年続いた室町幕府は、1573年15代将軍、足利義昭で終わった。室町幕府を滅ぼしたのは、織田信長ということかな。
1572年、甲斐の国(今の山梨県)の大名、武田信玄と戦った三方原の戦いでは、信長・家康連合軍は、武田信玄に敗れたが、信玄が病になり甲斐の国に引き返し、事なきを得た。信玄亡き後、その子、武田勝頼は、織田信長に長篠の戦い(1575年)で破れた。信長は、何千丁の大量の鉄砲を使って戦い。馬に乗って機動力を生かして強かった武田の騎馬武者たちも鉄砲の前にはどうすることもできず、次々に撃たれ倒れていった。
 1976年、琵琶湖のほとり(今の滋賀県)に安土城を築いた。その周りは、たくさんの商人たちが集まり市場ができ、外国との貿易も盛んでポルトガルやスペインから外国人も来ていたという。
 今の近畿地方、中部地方に信長の支配する地域は広がり、次は、今の中国地方に勢力をのばしていた毛利輝元との戦いであった。毛利氏との戦いに苦戦していた豊臣秀吉は、信長に援軍を頼んだ。信長は、明智光秀に秀吉のところに行くように命令したが、光秀は信長のやり方に不満をいだき、その兵を信長が泊まっていた京都の本能寺に向け、信長を殺してしまった。これを本能寺の変という。1582年、信長はその時47歳であった。
A信長の家来
柴田勝家、豊臣秀吉、明智光秀、前田利家 など。特に農民から出世して大名になり、信長が果たすことができなかった天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は有名である。また、明智光秀は、織田信長を京都の本能寺で殺してしまう。信長がなくなると家来同士の戦いが始まり、まず、豊臣秀吉が明智光秀を山崎の戦いで破り、その後、柴田勝家も豊臣秀吉に破れ、秀吉は信長に替わり家康とともに天下統一に向けて進むことになる。

B信長と楽市・楽座
信長は、特定の人たちにしか商売をすることが認められなかったことを改め、誰でも自由に行き来ができ、商いをするための市場を開けるようにした。これを楽市・楽座という。また、通行人に税を取っていた関所も廃止した。 
C信長の時代と南蛮貿易
 1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきて日本をまわりキリスト教を広めた。信長も ルイス・フロイスの布教をゆるしたが、それは外国の様子を聞いたりして文化を取り入れるためであった。
 そのころ、九州の大名たちは盛んにポルトガル商人と貿易をした。
ポルトガル商人は鉄砲・火薬・生糸・絹織物・皮革・香料・雑貨・金などを日本へもたらし、日本からは銀・硫黄や扇などの工芸品をもちかえった。カルタ、たばこ、カステラなどの言葉がうまれた。
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